HARMONISM

香りマスク

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隣に座っている青年はカバンに顔を突っ込んだ。

僕は体が許容する限界まで彼の反対側に体を捻っている。

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この世の地獄かと思える様な暑さの中、三途の川を渡るための列の様にずらずらと並ぶ人。人。

証明写真を撮り終え、面倒な免許の更新は残す所、優良ドライバー講習の30分のみ。大阪市内に引っ越してからと言うもの、車を必要としなくなり、すっかりゴールデンペーパードライバーである。

早めに会場に着席し、講習開始までの待ち時間の間、昔、神戸にある品揃えにセンスが感じられる古本屋で買った「大阪ことば学」という本を読む。

悪く無い内容ではあるが、必要以上に掘り下げてはいなく、それほど意識に残すものは無い。時間が空いていなければ読み続けてはいないだろう。

そんな、まったりと時間の流れが変化したのはこの辺りからだ。

明らかに空気が変わった。
本能的に「猛毒」とさえ感じさせる気配。

斜め前に勢い良く座った中年男性は、それをまとっていた。

世界中の靴下を集めて大鍋でコトコト煮立たせた様な、その臭気。目に見えるものでは無いが死神が纏う深黒の衣の裾の様な禍々しいオーラの様な物が見えてもおかしくはない。

実際はこの中年男性が見につけていたのは深黒とは真逆の晴れやかなオレンジのポロシャツだったのだが。

座席は8割近く埋まっていた。動こうかどうしようかと迷っているうちに、隣に頭を短く刈り、無駄に筋肉は付けず引き締まった体型の100mの短距離ランナーを思わせる青年が座り、程なくして講習が始まった。

「彼は地獄が始まる」
直感でそう思った。

地獄はもちろん僕自身にも容赦なく降りかかっていて常時「猛毒の臭気」が襲ってくる。勿論、鼻呼吸は封印して口呼吸のみでいたのだが、フェンシングのオリンピック選手のように、剣先1本分程しかない僅かな隙をついて「猛毒の香り」は鼻に突き刺さっていた。

講習会場は冷房が程良く効いていて涼しいのだが、僕は油汗をかいていた。
それほどまでなのだ。

気を紛らわそうと、ふと隣の青年を見た。

彼は講習用の教科書でマスクをこしらえていた。なるほどな。と僕は思った。印刷の強いインクの香りはもしかすると「猛毒の香り」を相殺できるのかもしれない。

と思ったのも束の間、「心ここにあらず」という顔つきで遠くを見つめていたり、幸い長袖を着ていたからできたであろう服の裾でマスクを作ったりあの手この手で防衛方法を考えていた。しかし、どれも効果は今ひとつの様で僕と同じく額にたっぷりと油汗をかきながら悶えていた。

何をしようが今、ここの場所は抜け出す事が出来ない地獄なのである。

地獄にも時間は流れている。
明らかに時の流れが遅くなった中での長い30分の講習を終えようやく免許の交付が始まる。

もう一息の辛抱だ。

僕は自分にそう言い聞かせて隣の青年をふと見た。

青年は自分のカバンに顔を突っ込んでいた。
僕は体が許容する限界まで彼の反対側に体を捻っている。

「猛毒の香り」の存在を知らない人間からすれば僕らの方はおかしな人間の様に映っていただろうが、もう限界だったのだ。

講習会場の下の階の便所は清掃が行き届いておらず強烈なアンモニア臭がした。しかし地獄をくぐり抜けた僕からすればそれは「極上のフレグランス」の様に感じた。

あの青年はその後嘔吐しただろうか、昼ご飯は食べられるだろうか。

僕には分からないが、あの中年男性の隣に座っていた「きゃしゃ」な青年は一度も鼻を押さえていなかった。世の中には鼻が悪い事が役に立つ事があるのだな。と思った。

僕はほのかに痛くなった頭を休めようと大きく深呼吸をした。

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